Home, Sweet Home

へーベルハウスで家を建てました。シンプルでモダン、でもちょっとナチュラルな空間に憧れています。夫nanjaと妻monjaで頑張ってセンスアップへの日々を綴ります。

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nanja的考察 -間取りについて 5-

 Nanjaの目の前には夏目漱石の家があります。
どうも、タイムマシーンの調子が悪かったのか、1951年の戦後から
明治時代にタイムスリップしてしまったようです。

soseki1.jpg
明治村にて

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nanja的考察 -間取りについて 4-

この「51C型」の更なる発展は、1955年に発足した日本住宅公団によるニュータウン建設でした。

danchi.jpg

公団により「51C型」の間取りに当時としては珍しいバスルームを組み込み、キッチンはステンレス流し台を標準装備した43㎡(13坪)「2DK」が生み出されました。これは高度経済成長期のなか、都市に集中してくる若者達(もちろん、核家族で2人~4人家族)の心を捉えました。それまでは奥にあった薄暗いキッチンが南の明るい場所に移動してきて、しかもキッチンの傍らでテーブルと椅子で食事をするというまったく新しい生活スタイルなのです。公団住宅の抽選会には多くの人々が押しかけ、高倍率の抽選が行われました。運よく公団住宅に住む権利が与えられた人々には、羨望のまなざしが向けられ「団地族」などと呼ばれたようです。

 この当時、「51C型」の南面の部屋はちゃぶ台やテレビ(当時は掃除機、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器と呼ばれたようですね)が置かれ、夕食や家族の団欒の場所、北側の部屋は家族仲良く寝る場所として使われ、朝食はDKで行うことが多かったようです。しかし、子供の成長に伴って北側の部屋は子供が使うようになり、両親が寝るところは南面の部屋でちゃぶ台を片付けて寝るようになります(「寝室の分解」ですね)。こうなってくると、より完全な「食寝分離」や更に「親子分離就寝」を可能にするためにはもう一部屋付け加えられた3DKの間取りが求められるようになってきます。そして、公団住宅も色々な世帯のニーズに応えるため、「51C型」をプロトタイプとして1DK、2K、2DK、3K、3DKといった間取りの系列を生み出していきました。この頃から家庭生活も豊かになり、洋風化の波に乗ってオーディオ、ソファ、ピアノが南面の畳の部屋に置かれるようになり、リビングルームの要望が次第に高まっていきます。そして、公団はDKを拡大したLDKというプランを作りだすのです。当時大量に発生した専業主婦達の関心はいかに公的(パブリック)場であるリビングを作るかということと、子供の教育に向かいます。子供の勉強がじゃまされないように子供には私的(プライベート)個室が与えられ、両親は子供の勉強を妨げないように子供室とは別の個室(よくマスターベッドルームと書かれているヤツです)で寝起きをするようになりました。これにより、公的部屋(リビングルーム)と私的部屋(子供室や寝室)が完全に分離した(これを「公私室(PP)分離」という)間取りが出来上がっていきます。

 1970年代初頭、田中角栄の列島改造により民間のマンションや建売住宅の販売棟数が飛躍的に伸びていきます。民間の業者は利益率を上げるためにマンションの区分を南北に細長く、土地も南北に細長くして販売をします。このような場所にLDK、バスルーム、トイレ、子供室、寝室を組み込むために玄関から”廊下”を延ばしこれらの部屋をつなげました。そして、人気の高かった公団の住宅間取りを示す「・・LDK」という行政機関の用語を前面に出して宣伝し瞬く間に日本全土にこの表記法が広がっていきました。こうして「nLDK」(ただし、nは世帯数から1を引いた数。両親2人と子供2人の4人家族なら3LDKとなります)間取りが誕生するにいたるのです。

nanja的考察 -間取りについて 3-

 第二次大戦で日本は焦土と化し、終戦直後420万戸の住宅が不足していました。1950年から始まった朝鮮戦争による特需景気のおかげで、この住宅不足を解消しようとする国のプロジェクトがスタートします。景気が上向いているといっても物資の不足は深刻であったため、一つの住宅に割り当てられた面積は35㎡(10坪ちょっと)。そこに、新しい時代に即した住宅ということで「食事をする部屋と寝る部屋は別になるような間取り(食寝分離)」を作ることが大きな目標でありました。
 寝室に関する当時の調査によると、家族が若いうちは一部屋で寝ていても、子供の成長や家族数の増加によりある時期から寝室を二つ使うようになる(「寝室の分解」という)ことがわかっていました。ですから、キッチンと二部屋からなる住宅ですと、一部屋を食事室、もう一部屋を寝室として使っていても、ある時期から食事室も寝室化してしまい「食寝分離」を維持できないことになります。ということは、三部屋とキッチンということになりますが、狭いところにこのような間取りを組むのは不可能でした。この困難を解決したのが、東大の助教授だった吉武泰水(よしたけ・やすみ)とその大学院生だった鈴木成文(すずき・しげふみ)の二人なのです。かられは、食事室とキッチンを一部屋にまとめる、すなわち、ダイニングキッチン(DK)を考案したのです。そして、「寝室の分解」に備えて部屋は二つ確保し、更には洗濯をしてそれを干すバルコニーの確保、水洗便所や物置も同時に確保することをやってのけたのです。

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(51C型)

この間取りは「51C型」(1951年に考案され、標準間取りA、B、CプランのCタイプという意味)と呼ばれました。また、この間取りは当時の行政機関の内部資料では「2DK」と記されていました。

nanja的考察 -間取りについて 2-

 さて、僕らが何故にそこまでPAOの間取りに魅かれたのでしょうか。それは僕らの中に、間取りに
ついての固定観念が植え付けられていて、それがPAOを見たとき、根底から音を立てて崩れ落ちて
いくように感じたからです。
 この僕らに取り付いていた固定観念の間取りとは、日本中に広がっている「nLDK型」というもの
です。これはLDK(リビング・ダイニング・キッチン、すなわち、居間・食事室・台所が一部屋に集まって
いる)の1部屋に加えてn部屋の合計n+1部屋からなる間取りです。

nldk10.jpg
 

 僕の育った家はこの「nLDK型」の典型でした。玄関を入ると廊下に沿って階段、トイレ、バスルーム、
奥にはLDKがあり、玄関脇には和室がありました。更に、階段を上がるといくつかの個室になって
いました。
nldk3.jpgまた、よく遊びに行った友達のマンションは、玄関を入ると細い廊下が南へ伸び、その両脇にいくつかの部屋、
トイレ、バスルーム、廊下の突き当りである南面にLDKが配置してありました。

 今まで伺ったことのある全ての家やマンションが上記の「nLDK型」であり、新聞の折り込みチラシの建売住宅やマンションのプランを見てもほとんど全てがこのタイプの間取りのため、「家を造るときは、このような間取りにしなければいけない」、更には「nの数が多ければ多いほどすごい家」とさえ思っていました。そんな僕が、初めての住宅展示場で、
いきなりPAOのプランを見たわけですから大変です。
放心状態の後、熱病におかされたようになり、気が付くと土地も無いのにヘーベルハウスと契約をしてしまったということになりました。


 話しが脱線しかけました。とにかく、PAOの間取りの特殊性を浮き彫りにするためには、
まずはこの日本でもっとも人気の高い「nLDK型」の間取りの形成、その長所や短所を
調べる必要がありそうです。そのためにNanjaは1951年にタイムスリップしなくてはなりません。

nanja的考察 -間取りについて 1-

やっとnanjaがブログに登場する気になったのですが…
「操作が分からないから」と、文章と写真のファイルを
渡されてしまいました…
アップしてみますので、「続きを読む」をご覧ください。
 注)長いです
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